沖縄県糸満市のひめゆり平和祈念資料館は日本人であればほとんどの方がご存知でしょう。

2014年12月31日に「ひめゆり学徒隊」の生き残りとして長い間戦争体験を語ってこられたきた、平和祈念資料館副館長の宮城喜久子(みやぎ・きくこ)さんが、なくなられました。

この方はもう86歳になられていました。

 そして今回

同じくひめゆり学徒隊の生き残りとして、戦争の悲惨さを語ってこられた島袋淑子さんが第2次世界大戦終了後70年という節目の年を迎え、この3月22日に最後の講話を行ないました。

まずは、日本で地上戦が行なわれた唯一の場所である沖縄戦の体験と戦争の悲惨さを長く多くの方に語ってくださったことに、「ありがとうございます」の感謝の気持ち。

「ごくろうさまでした」のねぎらいの言葉とともに敬意を表したいと思います。

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島袋淑子さん

平和祈念資料館が1989年に開館して以来、元ひめゆり学徒として講話を行なってきました。

私も高校の修学旅行で沖縄に行った折に、ひめゆり平和記念資料館にいきました。

沖縄でいちばん大きかったガラビ豪にも入りました。案内をしてくださった方はやはり学徒隊のかたで、「このあたりで何をした」「ここはこんなふうだった」と教えていただきながら奥まで行きました。

自分と同じ年頃の少女なら普通に入るだけでも怖いと感じる場所で、国のためにと頑張った方々のことを思うと、心が痛むと同時に自分はなんて幸せなのかと思いました。

そして、今、語り部の引退を決めた島袋さん。

高齢化により続けていくことが困難となり、沖縄戦から70年目となる今年を節目の年として引退を決められました。

ひめゆり平和祈念資料館の館長でもある島袋さんはもう87歳です。

最後の講話を終えて「戦争を知らない人たちにどう話したら分かってくれるかと、焦ったり悩んだりしている。」

「どれだけ伝わったか心配だが、一つのけじめをつけたい」と話されています。

 

語り部を継ぐ方

4月以降からは、戦争体験のない世代の方がひめゆり学徒の思いを引き継いでいくことになるそうです。

良かったです。たとえ戦争体験がなくとも風化させてはいけない思いを引き継いでいってくださる方がいるのは有難いことです。

「鬼畜米英と言われていたアメリカ人が優しかった…」と島袋さんは講話でいっていたそうです。こういう言葉は心に残りますよね。

それぞれに正義があるでしょうけれど。

アメリカ軍は投降した者に決して理不尽な危害を加えませんでした。そうした事実も戦争の悲惨さとともに伝えた島袋さんの講話をもう聞けないのは残念です。

これからはゆうくり余生を楽しんで欲しいと思います。

沖縄戦に動員されたひめゆり学徒隊は240人。そのうち無事に終戦を迎えることができた方は半分以下の104人でした。

ひめゆり祈念資料館が開館した当初は証言員としての語り部が27人いらっしゃいました。

しかし、今まだご健在の証言員は9人となったそうです。

後継者育成のため、講話を引き継ぐ説明員らとともに戦跡を巡り後を任せる。

説明員となる同館学芸課の尾鍋拓美さん(33)は「体験者に代われるか不安はあるが、伝えたいという気持ちは同じ。学徒たちの生きざまも伝えていきたい」と話しています。

島袋さんは館長として「世の中がどんなに変わっても、毅然(きぜん)として平和の尊さを伝えてほしい」と願っています。

 

 

そして、これからは

講話も多いときには年間1000回以上にだったそうですが、2013年には350回程度にまで減ったそうです。

これは反戦争への意識が低下した結果でしょうか?

40代の私は小学校の修学旅行で広島に行き、中学校では長崎へ、高校で沖縄へいきました。

そのすべてがこれからを行きる私たちに戦争の悲惨さを伝え、平和へと導くための貴重な体験でした。

平成となった今の学校の修学旅行は半分遊びのような旅行の要素が多くあるような気がします。

戦争跡地などは家庭では行く機会はあまりない場所です。是非、修学旅行などを利用して子どもたちに伝えていって欲しいと思います。

 

「ひめゆり学徒隊」は、主に負傷兵の看護にあたりました。

沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒222人による「ひめゆり部隊」。

ひめゆりの搭があるのは、当時看護活動を行なっていた最後の場所・旧陸軍第3外科豪跡地。

 

ここに部隊が移動した1945年6月には医薬品や食糧も底をついていたそうです。

6月18日に突如、軍より「ひめゆり部隊」解散命令が下されました。

この後、壕より脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれ、兵士や学徒の多くが死亡、生還者はわずか。

「ひめゆりの搭」は、この豪の上に建てられています。

豪の中は傾斜がきつく、この中で雨や泥にまみれ砲弾にさらされての生活はとても辛かったでしょう。

現在では想像もできません。

ひめゆりの搭
ひめゆりの搭

 

生き残った少女たちは、さらに荒崎海岸に追い詰められ、海に身を投げて自決した方が多くいます。

つまり…「ひめゆり部隊」の犠牲者194のうち、部隊解散後になくなった方が128人も。

これを考えると日本軍はどれほど無責任だったのか。

国を信じ国のために「ひめゆり学徒」となった少女たちの勇気と悲しみと、そして生き残り語り部となってくれた方々のたくさんの思い。

その思いがこれからも日本で語り継がれていくことを祈ります。

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